突然の訃報に野球ファンが驚きを隠せません。ロッテで捕手として活躍し、村田兆治投手の「マサカリ投法」を受け止めた名捕手・袴田英利(はかまだ・ひでとし)さんが2025年2月8日、脳出血のため69歳で亡くなられました。
法政大学では「昭和の怪物」江川卓投手、プロでは「マサカリ投法」村田兆治投手という、二人の伝説的投手のバッテリーパートナーとして、縁の下の力持ちに徹した名捕手でした。
実は彼が村田投手のフォークをノーサインで受けていたという事実には、知られざる理由と深い人間ドラマが隠されていたのです。
今回は、投手の能力を最大限に引き出す「名脇役」として野球界に大きな足跡を残した袴田英利さんの生涯と功績、そして彼が野球界に遺した「名捕手の哲学」について振り返ります。
袴田英利さん、69歳で急逝 - 脳出血が命取りに
関係者によると、袴田さんは昨年12月28日に軽度の脳梗塞を発症されたそうです。
通院で一度は症状が治まったものの、2月8日に容体が急変し、脳出血により帰らぬ人となりました。
葬儀は家族葬で既に執り行われたとのことです。
昨年末の脳梗塞から容体急変
医療の専門家によれば、脳梗塞と脳出血は治療方法が正反対の病気であるにもかかわらず、共通の原因である動脈硬化によって引き起こされることが多いといいます。
袴田さんの場合も、脳梗塞から回復したように見えながらも、その後に脳出血を発症するという不運に見舞われました。
晩年も変わらぬ野球愛
亡くなる数カ月前の昨年10月、袴田さんは元ヤクルト監督の古田敦也氏のYouTube番組に出演され、元気な姿を見せていました。
その際、村田投手のフォークをノーサインで受けていた思い出を「常に緊張感があった。何とか止めないといけない」と語り、当時の緊張感を生き生きと回想されていたそうです。
多くのファンは「つい最近テレビで元気な姿を見たばかりなのに」と、その突然の訃報に驚きを隠せません。
このYouTube出演が、彼の最後の公の場となってしまいました。
袴田さんの急逝は、彼との思い出を持つ多くの人々に深い悲しみをもたらしました。
では、なぜこれほど多くの人が袴田英利さんを惜しむのでしょうか。
それは、彼が二人の伝説的投手を支えた特別な「名脇役」としての存在があったからです。
二人の伝説的投手を支えた「名脇役」
袴田英利さんは、自動車工業(現在の静岡北高校)から法政大学に進学し、そこでは「昭和の怪物」と呼ばれた江川卓と、プロでは「マサカリ投法」で知られる村田兆治という二人の伝説的投手のバッテリーパートナーとなりました。
法大時代 - 「昭和の怪物」江川卓とのバッテリー
法政大学時代、袴田さんは江川卓と2年時からバッテリーを組み、「扇の要」として東京六大学リーグで5度の優勝に貢献しました。
当時の江川投手は「昭和の怪物」と呼ばれ、その強烈な速球は多くの打者を翻弄しました。
その剛速球を受け止めたのが袴田さんでした。
法政大学での活躍が認められ、1977年のドラフト1位でロッテに入団。
ここから彼の新たな野球人生が始まります。
ロッテ時代 - 「マサカリ投法」村田兆治の女房役
ロッテに入団した翌年の1978年、袴田さんは初めて先発マスクをかぶった試合から村田兆治の球を受けることになります。
村田投手のフォークボールは極端な落差があり、多くの捕手がキャッチングに苦労する難物でした。
村田投手は現役通算22年間でリーグ最多暴投を記録したシーズンが半分以上の12度、通算148暴投はいまだにNPB歴代最多記録だそうです。
それほど捕りづらい球を投げる投手のバッテリーパートナーを、袴田さんは1990年に同じ試合で現役を引退するまで務め続けました。
ノーサインでフォークを受けた驚異の技術と信頼関係
袴田さんが村田投手のフォークをノーサインで受けていたことは当時からよく知られていました。
しかし、その裏には意外な事実が隠されていたのです。
実は村田投手は近視でサインがよく見えず、サインを見間違えることが多かったため、ノーサインでの投球になったのだそうです。
しかし袴田さんは、エースのプライドを尊重し、この事実を村田投手が引退するまで明かさなかったといいます。
[画像: 袴田英利 村田兆治 バッテリー]
このエピソードからは、袴田さんの人間性と、投手への深い理解と敬意がうかがえます。
技術だけでなく、心の通じ合ったバッテリーだったからこそ、村田投手は通算215勝という輝かしい成績を残すことができたのでしょう。
こうした表舞台での活躍の影に、多くの努力と野球への献身がありました。
次は袴田さんの知られざる努力と献身について見ていきましょう。
知られざる努力と野球への献身
袴田さんの成功は偶然ではありません。
その背後には、並々ならぬ努力と野球への深い愛情がありました。
ビール瓶と砂でつくられた「鉄の手首」
法政大学時代、袴田さんは江川投手の速球に負けないように、砂を入れたビール瓶で左手首を鍛えていたといいます。
この独自のトレーニング法によって手首の強さを獲得し、それがバッティングの向上にも繋がったそうです。
この努力があったからこそ、プロ入りが叶ったとも言われています。
キャッチングの達人となるまでの4年間の苦闘
袴田さんはドラフト1位でロッテに入団したものの、最初の4年間はなかなか出場機会に恵まれませんでした。
その間、プロの厳しさを身をもって経験します。
村田投手からは「俺のフォークが捕れないなら一生二軍だ。辞めてしまえ」と厳しい言葉を浴びせられたこともあったそうです。
しかし袴田さんはこの言葉を糧に、ブロッキング技術を磨き上げ、体を張ったプレーを続けることでレギュラーの座を掴みました。
チーム打撃に徹した献身的プレー
袴田さんは打撃面でも献身的なプレーを見せました。
チーム打撃に徹し、2桁犠打が5年連続を含む6度、1986年の34犠打はリーグ最多記録でした。
通算成績は911試合で打率.231、38本塁打、231打点。
派手な成績ではありませんが、チームのために自分を犠牲にする献身的なプレーを続けた選手だったのです。
こうした現役時代の経験は、引退後の袴田さんの歩みにも大きな影響を与えました。
引退後も変わらぬ野球愛を持ち続けた袴田さんの活動について、次にご紹介します。
引退後も続いた野球界への貢献
袴田さんは1990年に現役を引退した後も、野球界への貢献を続けました。
その情熱は最後の日まで変わることがありませんでした。
里崎智也を育てた指導者としての手腕
引退後、袴田さんはロッテでコーチやスカウトを歴任し、里崎智也を正捕手に育て上げました。
村田投手のフォークを受けた経験を活かし、捕手としての極意を伝授したのです。
里崎智也は後に日本代表にも選ばれる名捕手となり、2005年には日本一も経験しています。
袴田さんの教えが次世代の捕手に受け継がれたという意味で、大きな功績と言えるでしょう。
ロッテ、西武、独立リーグでのコーチ活動
袴田さんは2014年から西武でもコーチを務めました。
西武退団後の2016年からは2年間、独立リーグでもコーチ活動を続けています。
その際、「給料なんてあってないようなものよ。ただ、野球界に貢献したい」と語ったというエピソードは、袴田さんの純粋な野球愛を象徴しています。
経済的な見返りよりも、野球への情熱を優先した姿勢は多くの人の心を打ちました。
村田兆治の遺志を継いだ「離島甲子園」
2022年に村田兆治氏が他界した後、袴田さんは村田氏の離島を巡る野球教室「離島甲子園」を継承しました。
恩師の意志を引き継ぎ、若い世代に野球の楽しさを伝える活動を続けていたのです。
バッテリーパートナーとして長年支え合った二人の絆は、村田氏の死後も袴田さんの中で生き続けていました。
そして今、天国で再びバッテリーを組むことになったのかもしれません。
袴田さんのこうした活動の源泉には、長年の野球人生で培われた独自の「捕手哲学」がありました。
最後に、彼が遺した「名捕手の哲学」について見ていきましょう。
袴田英利さんが遺した「名捕手の哲学」
袴田英利さんは66年の生涯を通じて、独自の「捕手哲学」を体現し続けました。
それは後世の野球人にも大きな影響を与えています。
「野球を愛し続けた」66年の生涯
「常に緊張感があった。何とか止めないといけない」という言葉には、捕手としての責任感と、野球に対する真摯な姿勢が表れています。
袴田さんにとって野球は単なる仕事ではなく、生涯をかけた情熱だったのです。
特に印象に残るのは、近鉄のブライアント選手との激しいクロスプレーでしょう。
本塁上での激しい衝突にも関わらず、任務を全うしようとした姿勢は、捕手としての覚悟を示しています。
漫画「ドカベン」にも影響を与えた存在感
袴田さんは野球漫画「ドカベン」にも登場し、主人公・里中に「スカイフォーク」を伝授するなど、文化的な影響力も持っていました。
創作の世界においても、袴田さんは頼れる先輩捕手として描かれ、その人柄が垣間見えます。
これは、水島新司先生が袴田さんの人間性や技術力に深い敬意を持っていたからこそのエピソードでしょう。
現実の野球界を超えて、漫画の世界でも「名脇役」として描かれたのです。
ファンと後進が語る袴田英利さんの人柄
袴田さんの訃報に接し、多くのファンやプロ野球関係者が追悼のコメントを寄せています。
そこからは、「地味ながらも、しっかりと足跡を残した」「村田さんのノーサインの球を捕れるのは彼だけ」といった評価が見られます。
また、彼が指導した選手たちからは「厳しくも温かい指導」「プレーだけでなく野球への姿勢も教えてくれた」といった声が聞かれます。
袴田さんは技術だけでなく、野球に対する姿勢や哲学も後進に伝えていったのです。
「ただ、野球界に貢献したい」という言葉に表れているように、袴田さんは名誉や利益よりも、純粋に野球を愛し、その発展に尽くした人物でした。
その生き方は、今日の野球界にも大きな影響を与え続けています。
最後に - エースを支え続けた「名脇役」の遺産
袴田英利さんの急逝は、日本野球界にとって大きな損失です。
法政大学で江川卓、ロッテで村田兆治という二人の伝説的投手を支え、引退後も後進の育成に情熱を注いだ袴田さんの功績は、日本野球史に確かな足跡を残しました。
派手さはなくとも、エースの力を最大限に引き出す「名脇役」としての役割を全うした袴田さんの野球人生は、表舞台で活躍する選手だけでなく、縁の下で支える人々の大切さを私たちに教えてくれます。
「何とか止めないといけない」という言葉に表れた責任感と、「ただ、野球界に貢献したい」という純粋な野球愛は、今後の野球界を担う若い世代にとっても、大きな指針となることでしょう。
袴田英利さんのご冥福を心よりお祈り申し上げます。
そして、天国でもきっと村田兆治さんとノーサインのバッテリーを組んでいることと思います。
袴田英利さんについてよくある質問
Q: 袴田英利さんはなぜ村田兆治投手とノーサインでバッテリーを組んでいたのですか?
A: 実は村田投手が近視でサインが見えづらく、サインを見間違えることが多かったためです。しかし袴田さんは村田投手のプライドを考慮し、引退するまでこの事実を明かさず、ノーサインでの捕球を続けました。
Q: 袴田英利さんの現役時代の主な成績は?
A: 袴田さんは通算911試合に出場し、打率.231、38本塁打、231打点を記録しました。特に犠打の多さは有名で、1986年の34犠打はリーグ最多記録でした。チーム打撃に徹した献身的な選手でした。
Q: 引退後の袴田英利さんは何をしていましたか?
A: ロッテや西武でコーチを務め、里崎智也選手を正捕手に育てるなど後進の指導に尽力しました。また、2022年に亡くなった村田兆治氏の「離島甲子園」野球教室を引き継ぐなど、生涯を通じて野球界への貢献を続けていました。
Q: 袴田英利さんと袴田彩会さんは親戚関係ですか?
A: 現時点で確認できる公式情報では、袴田英利さんとフリーアナウンサーの袴田彩会さんとの親戚関係は明らかになっていません。同姓ですが、「袴田」という姓は特に静岡県では多く見られる姓です。
Q: 袴田英利さんが漫画「ドカベン」に登場したのは本当ですか?
A: はい、本当です。水島新司氏の野球漫画「ドカベン」プロ野球編に実名で登場し、主人公の里中智に「スカイフォーク」を伝授したり、結婚の仲人を務めたりするエピソードがあります。