テレビ草創期から活躍し、兄の芦屋雁之助さんとともに日本の喜劇界を牽引してきた芦屋小雁(あしや・こがん)さんが、2025年3月28日、老衰のため91歳で逝去しました。
76年という長きにわたり現役で活躍し続けた小雁さんの訃報は、昭和の喜劇黄金期を知る方々だけでなく、近年の作品で彼の演技に触れた若い世代にも大きな衝撃を与えています。
芦屋小雁さん死去、テレビ草創期を彩った喜劇俳優の最期
「生涯 芦屋小雁!」—この言葉は彼が最後まで抱き続けた願いでした。
所属事務所は訃報を伝える書面で「最後まで現役で芦屋小雁として幕をおろすことができました」と伝え、本人の願いが叶えられたことを明かしています。
この記事では、日本の喜劇史に深く刻まれた芦屋小雁さんの生涯を振り返ります。
✓ 京都生まれの喜劇俳優、91年の軌跡
✓ 兄・芦屋雁之助との絆と共演作
✓ 視聴率62%の伝説「番頭はんと丁稚どん」の魅力
✓ 知られざるフィルムコレクターの素顔
✓ 認知症を公表しながらも貫いた現役生活
京都生まれの喜劇俳優、91年の生涯
芦屋小雁さんは1933年12月4日、京都府京都市に生まれました。
本名は西部秀郎、生家は友禅染工場を営んでいたといいます。
芸能一家だった西部家では、兄に芦屋雁之助さん、弟に芦屋雁平さん(初代芦屋凡凡)がおり、姪には女優の西部里菜さんがいます。
父親も芸能界に興味を持ち、一時期は漫才師として雁之助さんと地方巡業していた時期があったそうです。
また、長兄(芸能界には入らなかった兄)は京都の交通局に勤務しながらも、職場の劇団でプロレタリア演劇に関わっていたという、芸術的な土壌を持つ家庭で育ちました。
旧制中学を中退後、さまざまな職業を経験。
絵に興味があったことから商業美術の世界に入り、映画看板などを描いていました。
その後、兄の雁之助さんと漫才コンビ「若松ただし・きよし」を結成し、芸能界への一歩を踏み出します。
小柄な体躯に大きな存在感 - 名脇役としての軌跡
身長155cmという小柄な体格でしたが、その存在感は決して小さくありませんでした。
特に悪役を演じさせると実に憎たらしく、観る者の感情を揺さぶる演技力を持っていました。
あるファンはコメントで「憎たらしい役をやらせたら実に上手い人です。けど時には朝ドラ『ウェルかめ』で演じたヒロインの祖父役など温かみのある役もこなせる名脇役でした」と評しています。
映画「悪名」シリーズや、NHK朝ドラ「よーいドン」「ちりとてちん」など、数多くの映画やテレビドラマに出演。
晩年も「京都人の密かな愉しみ」など、京都を舞台にした作品に多く出演し、関西の誇りとなる俳優として活躍していました。
最近では、2025年3月27日(死去の前日)にBSフジで放送された「剣客商売」にも出演。
賭場にやって来る客を騙して集団で暴行を加え金品を奪う追い剥ぎ集団の首領格という悪役を、生涯最後の役として熱演していたことが明らかになっています。
芦屋兄弟の絆 - 漫才コンビから「裸の大将」継承まで
芦屋小雁さんの芸能人生を語る上で、兄・芦屋雁之助さんとの関係性は切り離せません。
二人三脚で歩んだ芸能界での軌跡は、日本の喜劇史における重要な一章となっています。
漫才コンビで芸能界デビュー - 兄・雁之助との歩み
1949年、芦乃家雁玉に弟子入りして「芦乃家雁之助・小雁」の名前をもらいましたが、雁之助さんの発案で「芦屋雁之助・小雁」へと改名。
この「芦屋」という芸名が後の日本喜劇界を代表する名前となりました。
1958年には兄とともにテレビ初のレギュラー番組「やりくりアパート」に出演。
テレビというまだ新しいメディアの黎明期から、その可能性に挑戦し続けました。
翌1959年には「番頭はんと丁稚どん」で人気を博し、一躍時の人となります。
芸名の由来: 芦屋という芸名は雁之助さんの発案によるものでした。漫才コンビとしての芸歴から始まり、兄弟で日本の喜劇界を牽引していくことになります。
1959年9月には、花登筺が結成した劇団「笑いの王国」に大村崑、芦屋雁之助らと共に参加。
1964年には劇団「喜劇座」を結成し、雁之助さんや藤本義一・茂木草介らが脚本を担当するなど、舞台活動にも精力的に取り組みました。
興味深いことに、西部三兄弟で最初に吉本新喜劇にデビューしたのは雁之助さんではなく小雁さんだったということも、あまり知られていない事実です。
「裸の大将放浪記」山下清役継承の背景と思い
2005年からは、兄・雁之助さんの死後、「裸の大将放浪記」舞台版で山下清役を引き継ぎ演じました。
この役は当初、雁之助さんが演じていた主人公の画家・山下清役です。
兄の遺志を継ぎ、「芦屋兄弟の名作」として観客に愛され続けた作品の灯を消さなかった小雁さんの思いは、兄への深い敬愛と責任感の表れといえるでしょう。
BSでの再放送を通じて、この「裸の大将」での小雁さんの演技に触れたファンも多く、コメント欄には「心よりご冥福をお祈り致します」との声が寄せられています。
「番頭はんと丁稚どん」視聴率62%の伝説と昭和喜劇の魅力
芦屋小雁さんのキャリアで最も輝かしい成功の一つが、1959年に放送が開始された「番頭はんと丁稚どん」です。
この作品の驚異的な人気は、現代のエンターテインメント業界では想像すらできない数字として記録されています。
テレビ草創期のコメディードラマが記録した驚異の視聴率
「番頭はんと丁稚どん」は視聴率62%という、現代では考えられない記録を達成しました。
これは単純に言えば、当時テレビを持っていた家庭の10軒中6軒以上がこの番組を同時に視聴していたということです。
SNSやインターネットが存在せず、娯楽の選択肢が限られていた時代に、国民的な団結点として機能していたことがうかがえます。
裏話: この番組は花登筺が脚本を担当し、東宝と製作していましたが、途中で製作元が松竹に移ったため、東宝所属の茶川一郎が出演できなくなり、代わりに弟の芦屋雁平が出演するようになったという舞台裏があります。
このような製作側の紆余曲折があっても、視聴者からの支持は一貫して高く、一家団欒の時間を彩る番組として愛され続けました。
昭和を熱狂させた芦屋兄弟の人気の秘密
なぜこれほどまでに人々を魅了したのでしょうか。
あるファンは「両親が『番頭はんと丁稚(でっち)どん』好きで、テレビ創成期から頑張っておられた人がなくなると悲しくなる」とコメントしています。
この言葉からも、単なる娯楽番組を超えて、家族の思い出や時代の空気そのものとして人々の記憶に刻まれていることがわかります。
当時のテレビは家族全員で囲むメディアでした。
笑いを通じて家族の団らんを作り出した芦屋兄弟の存在は、昭和の家庭の温かさそのものを象徴していたのかもしれません。
62%という数字の裏には、そんな時代の空気や人々の生活様式が深く関わっていたのです。
映画を愛した俳優 - 知られざるコレクターの素顔
芦屋小雁さんは演じる側だけでなく、映画そのものに深い愛情を持つ人物でした。
その情熱は単なる鑑賞を超え、日本有数のフィルムコレクターとしての顔も持っていました。
自宅にミニ映画館を作った情熱的映画愛
1960年代からSF映画・ホラー映画の蒐集を始めた小雁さん。
家庭用ビデオ機器が普及していない時代から、日本国外より闇の複製フィルムなど多数のフィルムを入手し、1985年当時には500本余りのコレクションを築いていました。
テレビ局からも定期的にフィルムの貸し出し依頼を受けるほどの規模と質を誇っていたのです。
そもそもは「映画を作ろう」という夢から始まり、勉強のためにフィルムを集め始めたことがきっかけでした。
情熱は留まることを知らず、1982年には新築した自宅の2階に映写室を作り、約50人を収容するミニ映画館まで設置したほどです。
悲しい別れ: 1987年に女優の斉藤とも子さんと再婚した際、妻となった斉藤さんがフィルムコレクションを嫌がったため、その大半を泣く泣く処分することになりました。小雁さんは後年、このコレクション処分を深く悔やんでいたと伝えられています。
神戸映画資料館名誉館長としての社会貢献
映画への愛は晩年も変わらず、2007年からは神戸映画資料館の名誉館長を務めていました。
自身の経験や知識を社会に還元し、映画文化の保存と振興に尽力した姿勢は、単なる俳優としてだけでなく、日本の映画文化を支える重要な存在でもあったことを物語っています。
コメント欄には「吸血鬼ドラキュラの本持っています」という書き込みもあり、映画好きとしての小雁さんの側面を覚えている方も少なくないようです。
認知症と共に歩んだ最後の日々 - 芦屋小雁さんの生き方
芦屋小雁さんは2018年12月7日放送の『爆報! THE フライデー』で認知症を患っていることを公表しました。
公表から6年以上が経過した後も、俳優として活動を続けた姿勢は多くの人々の心を打ちました。
2018年の認知症公表とその後の活動
認知症の公表後も、芦屋小雁さんは俳優活動を続けながら、認知症の理解を深めるイベントなどにも参加し、社会的な貢献も怠りませんでした。
爆報ザ・フライデーに夫婦で出演した際のエピソードとして、「認知症の為、施設に奥様が入れようとしても、"帰る"と言っていつも入所が破談になっていた」というエピソードも紹介されています。
コメント欄には「何か憎めない所があり、近くにいるだけで空気が和む勘がありましたね」という、人柄を偲ぶコメントも寄せられています。
「生涯 芦屋小雁!」という願いを全うした人生
小雁さんは生涯で3回結婚しています。
1960年にはテレビ企画『テレビ結婚式』で最初の結婚。
1987年には17年間別居状態だった妻と正式離婚し、女優の斉藤とも子さんと再婚しますが、この際の28歳の年齢差が話題になりました。
1995年に斉藤さんと離婚後、1996年には30歳年下の女優・勇家寛子さんと再々婚。
この30歳の年の差も世間の注目を集めました。
「生涯 芦屋小雁!」という信念を持ち続け、最後まで現役で活躍した小雁さん。
2025年3月28日、京都市内の自宅で老衰のため91歳でその生涯を閉じました。
ファンの思い出: 数年前に京都・八坂神社の参拝時に小雁さんと出会い、握手をしてもらったというファンは「素敵な浴衣でした。笑顔で握手してもらいました」と思い出を語っています。
祇園祭で目撃したという方も「糊のきいた紺の浴衣で歩く姿が粋でかっこよかったです」と、小雁さんの京都人としてのたたずまいを懐かしんでいます。
芦屋小雁さんが残した笑いの遺産 - 昭和喜劇の風景
芦屋小雁さんの死去は、昭和の喜劇文化の終焉を象徴するような出来事でもあります。
テレビ草創期からの活躍を知る視聴者からは「大村崑さんしかいなくなったな。もう昭和は遠くなった感じで寂しくなる」というコメントも見られます。
日本のエンターテインメント史において、芦屋兄弟が残した功績は計り知れません。
特に小雁さんは兄・雁之助さんの死後も、その遺志を継いで活躍し続けたことで、昭和の喜劇文化を令和の時代まで繋いだ貴重な存在でした。
現在では様々な動画配信サービスで、芦屋小雁さんの出演作品を視聴することができます。
BS12での「裸の大将」再放送や、「剣客商売」などの時代劇も含め、その演技に触れる機会は今後も続くでしょう。
芦屋小雁さんが91年の生涯で築き上げた芸術は、これからも多くの人々の心に笑いと感動を届け続けることでしょう。
「生涯 芦屋小雁!」という彼の願いは、作品を通じて永遠に叶えられ続けていくのかもしれません。
あなたは昭和の喜劇をどう感じますか?
芦屋小雁さんのような喜劇俳優が築いた文化は、今の時代にどのような形で受け継がれるべきなのでしょうか。
令和の時代に生きる私たちが、芦屋小雁さんから学ぶべきことは、情熱を持って生涯現役で活躍し続けるその姿勢なのかもしれません。
芦屋小雁さんについてよくある質問
Q: 芦屋小雁さんとはどんな人物だったのですか?
A: 芦屋小雁さんは1933年生まれの日本の喜劇俳優で、兄の芦屋雁之助さんとともに漫才コンビを組んでデビューし、テレビ草創期から76年間にわたり活躍しました。身長155cmと小柄ながら、悪役から温かい役まで幅広く演じる名脇役として知られていました。
Q: 「番頭はんと丁稚どん」とはどんな番組だったのですか?
A: 1959年に放送開始されたコメディードラマで、芦屋小雁さんと兄の雁之助さんが主演し、驚異的な視聴率62%を記録しました。当時のテレビ文化を代表する人気番組で、家族で楽しめる喜劇として多くの人々に愛されました。
Q: 芦屋小雁さんのフィルムコレクションとは何ですか?
A: 1960年代からSF映画・ホラー映画の蒐集を始め、1985年時点で500本以上のフィルムを所有する日本有数のコレクターでした。自宅に50人収容のミニ映画館を設置するほどの映画愛の持ち主で、2007年からは神戸映画資料館の名誉館長も務めていました。
Q: 芦屋小雁さんは認知症をどのように公表したのですか?
A: 2018年12月7日放送の『爆報! THE フライデー』で認知症を患っていることを公表しました。その後も俳優活動を続けながら、認知症理解を深めるイベントにも参加し、認知症と共に生きる姿を社会に示しました。
Q: 芦屋小雁さんと兄・雁之助さんの関係はどうだったのですか?
A: 漫才コンビを組んでデビューしてから、数々の共演作品を生み出した盟友関係でした。雁之助さんの死後は「裸の大将放浪記」で兄が演じていた山下清役を引き継ぐなど、兄への敬愛と責任感を示し続けました。