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小山正明さん死去、90歳。なぜ「投げる精密機械」と呼ばれ320勝を挙げた名投手になれたのか

 

小山正明さんが90歳で死去。「投げる精密機械」と称された伝説の投手、その驚異の野球人生とは

 

小山正明さん

小山正明さん


 

阪神タイガースをはじめとするプロ野球界のレジェンド、小山正明さんが2025年4月18日に急性心不全により90歳で死去しました。

「投げる精密機械」と称えられた小山さんは、日本プロ野球歴代3位となる320勝を達成した偉大な投手です。

葬儀は故人の遺言により、家族葬で執り行われました。

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あなたは「投げる精密機械」という異名を持つ投手がいたことをご存知でしたか?

その名を小山正明といい、テスト生からスタートして日本プロ野球史に名を刻んだ伝説の投手です。

この記事では、針の穴を通すと評された驚異的な制球力の秘密から、「世紀のトレード」、そして野球殿堂入りまでの小山正明さんの波乱に満ちた野球人生に迫ります。

 

 

 

🎯 なぜ小山正明は「投げる精密機械」と呼ばれたのか

小山正明さんが「投げる精密機械」と呼ばれた最大の理由は、その驚異的な制球力にありました。

「針の穴を通す」とまで評された彼のコントロールは、プロ野球史に残る伝説となっています。

⚾ 制球力の秘密

実は小山さんは、入団当初はコントロールの定まらない投手でした。

しかし「来る日も来る日もバッティング投手をやり、投球練習を続けた」(松木謙二郎監督)ことで、日本一の制球力を持つ投手へと成長したのです。

特筆すべきは、21年間のプロ生活で「一度も肩が痛くなった経験がない」という美しい投球フォームです。

このフォームが彼の長いキャリアと安定したパフォーマンスを支えました。

小山さんのコントロールへの自信を示すエピソードとして、試合中に審判のストライクゾーンをテストすることがありました。内外角にボール1個分外して投げ、主審の判定を確認してから次の球を投げるという駆け引きをしていたのです。
  • プロ野球通算856試合に登板
  • 歴代3位となる320勝を達成
  • 通算防御率2.45という驚異的な数字
  • 両リーグ100勝以上(セ・リーグ180勝、パ・リーグ140勝)は彼だけの記録

「ストライクを取るのはアマチュアのやること、俺は1球で打者を打ち取ることを考えて投げた」

この言葉からも、小山さんが単にストライクを取るだけでなく、打者の弱点を突いて効率的に打ち取ることを重視していたことがわかります。

これこそが「精密機械」と呼ばれるゆえんでした。

では、どのようにして無名高校出身のテスト生が、このような伝説の投手になれたのでしょうか?

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🌟 無名高校からテスト生、そして伝説へ。小山正明さんの驚くべきキャリア

小山正明さんが通った高砂高校は、実は彼が入学する1年前まで女学校だったのをご存知ですか?

1949年に男女共学となって野球部が設立されたばかりの、野球では全く無名の学校でした。

📝 意外な入団経緯

小山さんは高校3年の秋に進学を勧める父親を説得し、書道の先生だった父親が書いた紹介状をきっかけに、阪神タイガースの入団テストを受けました。

その達筆な紹介状が監督の目に留まり、テストから5ヶ月後の1953年3月に練習生として採用されたのです。

月給わずか5,000円のテスト生として入団した小山さんですが、翌1954年には早くも11勝を挙げ、主戦投手への道を歩み始めます。

わずか入団2年目で二桁勝利を挙げる活躍は、当時のテスト生としては極めて異例のことでした。

 

 

 

その後も着実に実績を積み重ね、1958年から3年連続で20勝以上を記録します。

特筆すべきは1962年の活躍です。

  1. 1 セ・リーグ記録となる5試合連続完封
  2. 2 47イニング連続無失点という神がかり的な記録
  3. 3 シーズン27勝で阪神の優勝に大きく貢献
  4. 4 沢村賞受賞

この年、村山実との「ダブルエース」として、小山さん27勝、村山さん25勝という驚異的な成績を残し、阪神全体で75勝のうち二人で52勝をマークしました。

無名校出身のテスト生が、球団のエースとして君臨するまでになったのです。

あなたはこのような成功の理由は何だと思いますか?

小山さんのケースは、「下積みの苦労」が花開いた典型的な例です。

バッティング投手としての厳しい訓練が、後の「投げる精密機械」と呼ばれる制球力につながったのでしょう。

しかし、小山さんの輝かしいキャリアは阪神だけでは終わりませんでした。次は「世紀のトレード」と呼ばれた移籍について見ていきましょう。

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💫 パームボールの秘密と「世紀のトレード」。小山正明さんの栄光と挑戦

あなたは小山正明さんが3種類のパームボールを使い分けていたことをご存知ですか?

実は小山さんは制球力だけでなく、独自の変化球でも多くの打者を翻弄していました。

⚾ パームボールの開発秘話

小山さんがパームボールを習得したきっかけは意外なものでした。

球威が衰えたときのために、新しい球をマスターしなくては」という危機感から、アメリカの雑誌を参考に独学で身につけたのです。

最初にパームボールの威力を発揮したのは1958年の日米野球

メジャーの強打者スタン・ミュージアルを空振りに取ったエピソードは有名です。

しかし本格的に活用し始めたのは、当時苦手としていた巨人の王貞治選手への対策としてでした。

  • 王貞治選手は小山さんに対して7本塁打を放っていた
  • パームボール習得後は王選手の被本塁打を0に抑えた
  • 3種類のパームボールを使い分けるほどの習熟度
  • ストレートの投球フォームと全く同じで変化がわかりにくい

 

 

 

この変化球について、張本勲氏は「真っすぐと思って振るとクッと沈んで空振りとなる」と評しています。

そして、「スピードも回転もあって、真っすぐとの区別がつかなかった」として、「魔球」と呼ぶにふさわしい威力を持っていたと証言しています。

⚠️ 「世紀のトレード」の真実

1963年、村山実と共にエースとして活躍していた小山さんですが、「両雄並び立たず」という声が球団内からあがっていました。

そして1963年のオフ、小山さんは山内一弘選手との「世紀のトレード」で大毎オリオンズ(現ロッテ)に移籍することになります。

長打の打てる打者がほしかった阪神と、エース投手がほしかった大毎オリオンズとの思惑が一致した結果でした。

移籍後の活躍も目覚ましく、1964年に東京オリオンズで30勝を達成して最多勝利のタイトルを獲得しました。

広い阪神甲子園球場から狭い東京球場に本拠地が替わったため、パームボールを駆使して内野ゴロを打たせる投球スタイルで成功を収めたのです。

小山さんは現役引退後も野球界に大きな貢献をしました。次は引退後の活動と彼が残した遺産について見ていきましょう。

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👑 引退後の貢献と遺産。小山正明さんの野球人生

小山正明さんは1973年、大洋ホエールズ(現DeNA)を最後に現役を引退しました。

しかし、彼の野球界への貢献はそこで終わりではありませんでした。

ℹ️ コーチとしての功績

引退後は阪神、西武ライオンズ、ダイエーホークス(現ソフトバンク)で投手コーチを務め、多くの若手投手を育成しました。

特筆すべきは、彼が若手投手にパームボールを伝授したことです。

阪神コーチ時代には谷村智博選手に、西武時代には入団2年目の石井丈裕選手にパームボールを教え、彼らの才能を開花させました。

コーチとしての小山さんは的確なアドバイスで知られ、「投手の分業制には反対」という明確な哲学を持っていました。

この哲学は解説者時代にも引き継がれ、辛口ながらも愛情に溢れた解説スタイルが多くのファンに親しまれました。

 

 

 

小山さんの偉大な功績は、2001年の野球殿堂入りという形で正式に認められました。

日本プロ野球史に残る記録の数々と、後進育成への貢献が評価されたのです。

  • 引退後の活動:阪神、西武、ダイエーで投手コーチ
  • 後進への技術伝承:パームボールの伝授
  • 解説者・評論家として活躍
  • 2001年野球殿堂入り

あなたは小山正明さんのどんな部分に最も感銘を受けますか?

制球力?パームボール?コーチとしての貢献?それとも長年にわたる野球への愛でしょうか?

彼の「投げる精密機械」としての技術と精神は、現代の若い投手にとっても大きな学びとなるでしょう。

最後に、小山正明さんの野球人生を振り返り、その偉大な功績をまとめてみましょう。

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📝 まとめ - 小山正明さんの偉大な野球人生

小山正明さんは2025年4月18日に90歳で亡くなりましたが、彼の野球人生は日本プロ野球史に輝かしい足跡を残しました。

📊 小山正明さんの主な成績

  • 通算856試合に登板
  • 320勝232敗(歴代3位の勝利数)
  • 通算防御率2.45
  • 最多勝(1964年)
  • 最多奪三振・沢村賞(1962年)
  • 両リーグ100勝以上(セ・リーグ180勝、パ・リーグ140勝)

なぜ小山正明さんがこれほどまでに偉大な投手になれたのか?

それは彼の不断の努力にあります。テスト生からのスタート、バッティング投手としての下積み、そして常に自分を高めようとする向上心。

また、パームボールという新たな武器の開発に見られるように、柔軟な適応力も彼の成功の鍵でした。

小山正明さんの「針の穴を通す」制球力と知略に富んだ投球術は、現代の投手にとっても学ぶべき点が多くあります。

テスト生からレジェンドへと成長した彼の努力と精神は、野球界の宝として永遠に記憶されるでしょう。

「投げる精密機械」という彼のニックネームが示すように、小山正明さんの投球は技術の結晶でした。

その技術と精神は、これからも多くの人々に影響を与え続けるでしょう。

小山正明さんの訃報に接し、改めて日本プロ野球の歴史と伝統を振り返るきっかけとなりました。

読者の皆さんも、是非この機会に野球の歴史に触れてみてはいかがでしょうか?

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よくある質問

Q: なぜ小山正明さんは「投げる精密機械」と呼ばれたのですか?
A: 小山正明さんは「針の穴を通す」と表現されるほどの抜群の制球力を持っていたため、「投げる精密機械」と呼ばれました。この制球力は、バッティング投手としての厳しい練習から生まれたものと言われています。

Q: 「世紀のトレード」とは何ですか?その後どうなりましたか?
A: 「世紀のトレード」とは、1963年オフに行われた小山正明(阪神)と山内一弘(大毎オリオンズ、現ロッテ)のトレードのことです。エースと4番打者の交換という当時としては衝撃的な取引でした。その後、小山さんは東京オリオンズで30勝を挙げ、山内選手も阪神で活躍し、双方にとって効果的なトレードとなりました。

Q: 小山正明さんが開発したパームボールの秘密とは何ですか?
A: 小山さんのパームボールは、アメリカの雑誌を参考に独学で習得したもので、ストレートと全く同じフォームから投げられることが最大の特徴でした。また、小山さん自身が語るように、3種類のパームボールを使い分け、特に王貞治選手への対策として大きな効果を発揮しました。

Q: テスト生として入団した小山正明さんが320勝という偉業を達成できた理由は何ですか?
A: 小山さんの成功の鍵は、不断の努力と向上心、そして柔軟な適応力にあります。バッティング投手としての下積み時代の厳しい練習が制球力を鍛え、「球威が衰えたときのために」と新しい変化球を習得する先見性、さらに21年間「一度も肩が痛くなった経験がない」という美しい投球フォームが長いキャリアを支えました。

Q: 引退後の小山正明さんは現在の野球界にどのような影響を与えていますか?
A: 小山さんは引退後、阪神、西武、ダイエー(現ソフトバンク)で投手コーチを務め、若手投手にパームボールを伝授するなど技術の継承に努めました。また、解説者として「投手の分業制には反対」という明確な哲学を持ち、辛口ながらも愛情に溢れた解説で多くのファンに影響を与えました。2001年には功績が認められ野球殿堂入りしています。

 

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